無責任な言葉ほど嫌いな言葉はない。
無責任な言葉ほど嫌いな言葉はない。
自分が悩んでいるときに口だけで「大丈夫」と言い出す人はあまり好ましく思わない。
その人からすると優しさなのかもしれないが、自分にはそう感じないものだ。
「大丈夫」の言葉の中に責任が感じられない。
もしも、その人が過去に、または現在、何かに本気で挑戦して、それでも上手くいかなくて、自分以上に悩んでいる時があったのなら、きっとその人の「大丈夫」には責任が生じる。
なぜなら相手の気持ちを理解することができるから。
しかし、人と人のやり取りはとても難しく、相手の気持ちや経験は目に見えないことが多い。
だからそこ、「責任がある」発言も「無責任」と当事者が認識すればそうなってしまう。
そういったことが私自身多々ある。
でもなぜか不思議と言葉の中に「想い」が見える時がある。
それは相手の眼差し、態度、そして伝え方に見られる。
もちろん、相手の人の経験はお互いに開示して知っていれば見えるものである。
(幼稚園児に「落ち込まないで」と言われることと80歳の高齢者に同じことを言われるのとでは意味が違うということである。)
「大丈夫」と言う言葉の中にもその言葉を真剣に当事者に伝えたい、そして当事者のことを聴いてあげたいという想いがあれば、人はなんらかのアクションを起こすだろう。
肩を叩いたり、泣いている人の隣に居てくれたり。
相手が自分と全く同じ経験をして、全く同じことで悩むことはまずない。
だからこそ、その「人」に耳を傾けて聴いてあげるか、心に寄り添ってあげるか、そこに本当の「責任」が生じると私は感じる。
つまり、ここでいう「無責任な発言」とは一方的な言葉がけのことである。
それは大人でも子どもでもどんな職業でもどんな人種でも共通だ。
知ったかぶりをしても何の意味もない
これは、過去に自分の周りにいる人たちがみんな知識をたくさん持っていて、どうにも自分が話題の中に入っていけなかった悔しさから、知らないのに知っているふりをして、虚しい経験をした後に残したメモです。
皆さんにも何か伝わるものがあれば幸いです。
知識不足で他人の話についていけない時に、強がって知ったかぶりするのは何の意味もない。
知識は人に教えてもらって、または自らが調べて身につくものだ。
せっかくのチャンスを自分が強がったがために失うのはかなりもったいない。
聞けばいいじゃない。
調べればいいじゃない。
なにが怖くて、なにが恥ずかしいの?
知識不足で話についていけなくなって、
ハブられるかもしれないから?バカにされるから?
知識がある人が一番なの?そんなことない。
知識はあった方がいいけど、全部知っている人なんていない。
その知識をたくさん持っている人はどうして、たくさんの知識を持っているの?
勝手に身についた?いや、その人も聞いたんだよ、調べたんだよ。
その結果が、『知識』として身についたんだよ。
その人が努力した証なんだよ。
だったらその人から教えてもらえばいい。
それでもわからなかったら自分で調べればいい。
それでも身に付かなかったら、その知識を誰かに話してみればいい。
もしかしたら、あなたにしか知らない知識もあるかもよ。
その時から私は知らないことは正直に「知らない」と言うようにしています。すると、周りの人たちは優しく丁寧に、時には笑いながらも教えてくれます。
そのように自分から勇気を出して聞いてみて得た「知識」はなんだか、本を読んで得た知識よりもずっと覚えているような気がします。
才能は誰もがもっているものなんだ
才能とは自らの努力や訓練によって発揮される、物事を成し遂げる力のことである。
決して天性とかそういうものではない。
人には必ず才能はある。
ない人は一人としていない。
けれど、自分の才能を知っている人は少ない。
他人から言われて気づくという場合もある。
一生気づかない人もいる。
才能があるとかないとかそんなことで悩むのであれば、才能を見つけるために努力した方が断然、才能を発見できる可能性が高い。
なにか一つの物事を取り組んできた人でもそれが才能にならない人もたくさんいる。
でも、その物事を取り組んできた中でどこかで自分の才能を発揮できている場面がある。
才能がなくなってしまうことはない。
才能が変わってしまうことも少ない。
だから、長い時間がかかろうとも、才能を見つけることができた方がいい。
そのためにいろんなことへチャレンジしてみる、今、熱中しているものを続けてみる。
なにもなくて悩んでいる人はなにかを『変化』させればいい。